2016年の目標

ブログを書くとなると誰かに見せるためという意識があったが、そんなことは気にしないことにした。見たい人は勝手に見れば良いという気持ちで書いたほうより面白い記事が書けるような気がする、という言い訳を考えた。

 

さて、ここからが本題。2016年になって二日目となるが、山梨の実家で今年の目標を考えた。目標を考える時のフレームワークとしては、目標→手法→KPI→モチベーション維持の手法の4つを明確にすることが必要だと思う。

この方法は僕のオリジナルではあるが、そこそこ使いやすいように思うので、是非誰かに使って欲しい。注意点として、フレームワークを使っていて直ぐに突き当たるのが、レベルを統一することだろう。例えば「目標」の段階も大目標→中目標→小目標といった階層構造になる可能性が高い。

例えば、下記のケースがあるだろう。

 

大目標:かっこ良い男になる

 中目標:センスが良い

  小目標:服装がオシャレ

  小目標:音楽に詳しい

 中目標:仕事が出来る

  小目標:ロジカルシンキングができる

  小目標:ディスカッションが上手い

 

上記のように階層構造になることも多いと思う。むしろ、目標をブレークダウンできる形の方がより具体的で、今後改善していく際に改良しやすいため望ましい。是非階層構造にしていただきたい。

もっと掘り下げていくことも可能ではあるし、大目標が複数になる場合もあるが、そこは各個人が自由に改良していくべきだろう。

さて「目標」の注意点に続いて、「手法」についても述べたいが、ここまで書いてだんだんめんどくさくなってきた。

というわけで全てを投げ捨てて目標を適当に羅列することにする。自分で主張した階層構造ですらないのだが、はてなブログでは階層構造の記述が非常にめんどくさいため、書き気持ちが萎えてしまった。羅列ではただの忘備録にしかならないだろうが、しょせん自分に書いている記事だ。

 

・moocで10コース終わらせる(一ヶ月に一つくらい)

・ファッションセンスを磨く

・カラオケで90点(精密採点DX)を出せるようにする

・バスケを始める(運動不足だし)

・筋トレをする(ベンチプレスで90キロを上げる)

・絵をうまく書けるようにする(センスがないのです)

・会社とは別に新たにサービスを始める(今年29歳になるから何かを始めたい)

・睡眠時間を確保する(大切な目標です)

・シェアハウスを出る(そこそこ給料をもらっている割には貧乏性でして)

 

まだまだありそうだけととりあえずこんなもんで

 

 

学歴ロンダリングと就活について1

学歴ロンダリングの経験者として、記事を書くことは学歴ロンダリングするかどうか悩んでいる人の役に立つだろうと思い書く

 

冷静に考えると、もともとこのブログは人に向かって書いていたり、自分に向けて書いていたりとりとめは無いのだが、記事が書ければ何でも良い。ようは自分の考えを文章という形にする過程で、まとめることが重要だと考えるからである。

 

(いちおう人に向けて書いているので)自分の自己紹介から書くと、私は東京都内偏差値50程度のFランク大学を卒業して、2011年4月に東京大学大学院 農学生命科学研究科に進学した。

 

なぜその選考を選んだかと言えば、彼女が志望していて、かつ受かりやすかったからとしか言いようがない。事実、併願として工学系研究科の社会基盤専攻(土木がメイン)も受けたが、こっちは全然ダメだった。研究自体に興味があるというよりは、東大ブランドの方が10倍は興味があった。

 

さて、今日はキャリア(就活)と学歴ロンダリングについて書きたい

 

キャリアについて

東大ブランドを手に入れれば一流企業への就職は余裕で、人生はバラ色になると考える人がいるが、実際はそのようなことはない。

 

エントリーシートに落ちる可能性はかなり減るが、一番重要なのは面接を通過することで、エントリーシートと異なり実際の頭の良さ+人柄がわかってしまうので、偽物の学歴を纏ってもそこでバレる。

というわけで学歴ロンダリング組には面接にはいけるけれど、面接が全然通過しない人がかなりいる。

とはいっても、入り口(面接)に立てるメリットだけで十分というなら、それで良いとも思う。事実、私が今の会社に入れたのはそのメリットを活かした結果であるから否定のしようもない。

ただ、就活については期待しているよりも大きなメリットはない、ということだけ述べたい。

 

一方デメリットとして、就活時に研究が進んでいないという点がある。殆どの人は4年生と研究テーマが変わるため、大学院入学後半年で外資の就活が直ぐに始まり、大学院生になる意味とも言える「研究」について話せることがないまま就活を行うことになる。

これは技術系で就職するにあたり、ハンデとなる面も大きい。

私の学部時代の同期は、京都大学の大学院に学歴ロンダリングしたが、技術系での就職お希望したため、半年の研究内容では全く話にならず、就職できなかった。

 

この辺りを考えて学歴ロンダリングするかどうかを考えるべきだろう。

 

 

 

 

彼女には振られるし俺はどうすれば良いんだ

8月の終戦記念日に6年付き合った彼女に振られた

 

同じFランク大学の同級生で、彼女が東大の大学院にロンダリングすると言ったから、俺もロンダリングに興味を持ったという経緯がある。

 

東大に行けば、何よりも彼女の側にいられるし

 

それまでは「とてもとても東大なんて無理無理笑」、という状態だったので、まさか自分が東大の大学院に入るとは夢にも思っていなかった。

 

東大大学院も入れればどこでも良かったから、彼女と同じ専攻にしたくらいだし、何より彼女第一で6年間生きてきた。

 

別れた日は会社を休みたかったけれど、どうしても休めない仕事があったからわざわざ休日出勤して、誰もいないオフィスで会社で泣きながら仕事をしていた。

 

結局今は外資コンサルティングファームで働いているが、そこそこうまく行っている。彼女には自分の人生を変えてくれたという感謝しかない

 

彼女に出会っていなければ、俺はFランク大学卒のまま中小企業に就職し、にっちもさっちもいかない人生を歩んでいただろう

 

だから感謝しかない

 

しかし寂しい、6年同棲して今更一人暮らしをするとこんなにも寂しいものかと実感する

 

みなはどうやって耐えているのだろうか・・・

 

もうまんが喫茶には行かない

今日は9~12時でバスケを行い、続けてジムで筋トレをした

 

ここまでは非常に時間の使い方も良く良かったが・・・速読の学校と会社のどちらかに行くか悩んで、なぜかまんが喫茶を選択したのは明らかな失敗だった

 

1時間で終えるはずが結局4時間半まんが喫茶に居座り、結局残ったものは黒子のバスケを半分以上読んだことくらいだ

 

最近は漫画自体に興味が減って来ているので(大人になるとそうなのだろうか?)、もうまんが喫茶に行くメリットも無いだろう

 

ゲームも18歳まではやりこんだけれど今はもうやらなくなった

どんなものにも卒業のタイミングというものはあるのだろう

 

というわけで漫画を読むためのまんが喫茶は本日をもって引退とする

日本や所属している会社が凄いのではなく「私が凄い」という考え方が良い

本屋に行くと日本礼賛本が並んでいる

本屋に行くと「日本はこんなにすごい」といった日本礼賛本を目にする機会が多い。

若しくは「中国・韓国は没落する」といった嫌中・嫌韓本を目にする。

 

そうやって日本を褒めることは別に問題ないが、「日本に所属している自分は凄い」と誇りを持つようになるとどうもカッコよくない場合がある。

なぜカッコよくないと思うかというと、たまたま日本に生まれただけで特に日本に貢献していない人がそういっているように感じるからだろう。

 

親が凄いことと自分が凄いことは別の話

「自分の親は凄い」と自慢げに言う子供がいるとする。これは「自分の親は凄い、だからその子供の自分も凄い」という理屈だ。

これに対して常々感じていたのは、「それは親が凄いだけで、君はどうなの?」という思いだ。事実、自分に自信がないから親の威厳を借りていたのだろう。能力に対してプライドが高い人がそうなる傾向があると思われる。プライドに対して足りない能力は親の力を借りることで補っているのだろう。

 

自分に自信がない人は組織の凄さに縋る

これは国家に限らず、全ての組織に当てはまる。大学という組織でいえば、「東大卒という肩書に拘るのは、東大を出たことしか誇ることがない底辺の東大生」という意見も聞いたことがある。この例では「親が凄い」ことよりは自分が凄いことに関係があると思うが、上手くいっていない現状を誤魔化すために過去の栄光に縋っているところがカッコよくない。

 

同じようにどうも、上記の本を見ると「日本が凄い」事に縋っている風に感じることがある。

本当に自分に自信がある人は素直に、「俺は~ができるから凄い」と言うし、そういう人は素直に尊敬できる。そのため、そういう人になりたいと私自信思っている。

 

「世界を変えたいのなら、まず自分が変わりなさい」

ガンジーはそういった。これは、先ほどの話とも関連して、無理して高いプライド(目標)を持つより、まず自分(足元)を見ましょうとらえている。

 

日本や所属している会社が凄いのではなく、「私が凄い」と思えるように奢らず足元を見て日々努力していきたい。

 

 

将来残る仕事は「保険」と「娯楽」しかない。

昔角田さんに聞いたが、「ジャック・アタリ」は、将来全ての問題(病気など))解決したとき、二つの産業しか残らないといった。

保険と娯楽(エンターテイメント)の二つである。


産業(ビジネス)はあるニーズを満たすことでお金を得るが、病気等が解決されたとき、漠然と残る現在の不安と将来の不安の二つしか残らなくなる。
保険の本質は将来の不安をなくすもの、娯楽は現在の不安を忘れさせるものである。

私自身は人間の漠然とした不安はなくならないと考えており、人間は100%死ぬという事実が必ず不安を起こさせるものだと考える。
人間は死ぬ理由については、個人的に一向したい。
話は全然それるが、しょせん雑記帳なのでご理解いただきたい

 

なぜ人間は死ぬのか、生物学的な観点からの考察

この疑問は下記の問いに入れ替えることができるだろう。
「生物としての人間の目的を達成ために、死なない場合と死ぬ場合のどちらが効率的か」
生物のしての人間の目的は、種として生き続けることだ。
生物というのは、存続することが目的であって、それ以外の目的はないと思う。

それならば、生物としてではなく、人間固有の目的はあるだろうか?
「文明を発展させるため」とするのは、種としての存続を可能にするための手段であって、目的はないという意見がある。
個人的には、文明を発展させたその先の「究極的なもの」を作るために人間はいる、という遠藤周作の小説の一文が非常に好んでいるし、
そうあって欲しいと思っている。
その考えで行くと、「文明を発展させて、最後究極的なもの」を作るため、というのは人間という主としては目的となる。
しかし、今回は生物としての考察なので、こちらは今後の考察としたい。


「死ぬ」ことによって、生物は何を行うか?
それは「子孫を残す」という行為だろう。
自分は永遠に生きられない、そして種として永遠に存続しないといけない、そうすると自分の遺伝子を継いだ子孫を作る必要がある。
かつ、より強い子孫を作るためには遺伝子の多様性を上げる望ましいため、男性と女性を作った。


「死ぬ」ことによって思考停止から逃れることができる
「死ぬ」という前提は、人間に「思考」を促す。試験などで期限が近づきあわてて勉強し始めた経験は誰にでもあると思うが、
死ぬこともそれに当てはまるだろう。限りある時間だからこそ有意義に使うことを考える。
文明を発展させるためには、「人間は必ず死ぬ」という性質は貢献しているだろう。

人間不安はなくならない
「人間は必ず死ぬ」、かつ「死後の世界はわからない」。それは常に人間に不安を与えることを意味する。
わからないことが最も怖いからだ。

そのため、ジャックアタリは最後に残る仕事(永遠に残る仕事)は「不安をなくす」

仕事だと言っていたと推測する。

その不安を分析するフレームワークとして、「現在」と「未来」の両方について述べているのだろう。

 

 

どうすれば時間あたりの密度が高くなるか

メモ

 

・ストップウォッチで常に時間を図る

・出来る限り頭をつかう作業をする(ちきりん的には、1日4時間まで)

・時間あたりのアウトプットを明確にする

・重要だけれど緊急ではない仕事をいつでも用意しておく(細切れ時間の利用)

・未来を想像する(なんとなく未来を想像すると楽しみだよね!!)

・オーディオブックとかつかう