Awe体験を得るために

Awe体験の本を読んだ

Awe体験の本を読んだ。偉大な自然や造形物を見たときに、人は口を半開きにして、鳥肌がたり、声が出なくなる。そうなってしまうような体験のことだが、このような状態がとても健康に良いらしい。これは他の本から同じことを知っていたので、まあそうだろうなという感じだった。科学的には自律神経の問題で、交感神経と副交感神経が拮抗した状態になり、脳をリセットできることが健康への貢献ポイントらしい。同じようなことはオーガニズムにしか起きないらしいので、Awe体験を極めればセックスの代替になる可能性もある。

 

どうやったらAwe体験できるか

 しかしこのような理屈も大切だが、自身のためには具体的にどうしたらAwe体験になれるかがもっと大切なので、まずHowの部分を書いていきたい。

・まずIMAXの映画を見ると没入感が高まり良いらしい。都内であれば、日比谷、新宿、池袋、品川が行きやすようなので、半休ないしは仕事終わりに毎週行くようにしたい。没入感といえばゲームも良いのかもしれない。

・自然と触れること。偉大な自然や協会のような造形物、つまり芸術に関わるところを見ると良いらしい。天井が高いと偉大さを感じるとか色々あり、個人的には広くて吹き抜けがある家はAwe体験を多くできるのではと感じた。また、芸術の凄さを知るためには自身が作者になる必要がある。バスケットプレイヤーだからこそ、バスケットの凄さがわかるのと同じだ。その観点から自身も芸術に触れる必要があるだろう。山の頂上やビルの頂上も良いらしい。山登り好きな同僚は非常にAwe体験を積んでいるだろう。

・運動。特にナイトウォークが良いらしい。夜の森をあることの効用は昔から知っており、実家にいるときに時々夜の山をあるきたくなったのはこのせいかと納得した。夜の高尾山や北の丸公園でも歩くとするか。

・食事。健康的なものを食べよう。

・共感。試合やコンサート、そういった共感もAwe体験を呼ぶらしい。人気のアーティストのコンサートに行っても良いかもしれない。昔の彼女はガンバ大阪の試合やプロレスをよく見に行っており、サッカーのために生きているとまで言っていた。彼女もAwe体験を求めていたのだろう。

・直近のAwe体験を書き留めること。少し考えてみると最近では以下のがある。

 ・甥っ子と地元を歩いているときに感じた。

 ・法事で20人の親戚に囲まれて世代を超えて話している光景、そして自身もその一部と感じられたときに感じた。

 

Awe体験にはもともと同じ概念を注目していたが、これからもっと体験できるように積極的に試したい。

若者は資産家ではなく職人に憧れる

 35歳は明確に若者ではなくなる年齢であり向き合わざるおえない

 35歳というのは若者とおじさんの境目だった時期を抜け、明確におじさんつまり中年になったということが言い訳できない年齢だ。自らこの年齢になってみるとなかなか心の整理が難しい。身体能力や顔や白髪で老いを感じ始め、性的能力でも衰えてきているのを感じる。そして昔のように一つのことに集中できない、何かが気になって集中できないようになってくる。20代後半なら仕事に全力投入すれば80%成功という感覚があるが、努力しても年収が増えなくなってきたり、お金が増えても幸せを感じにくくなってきたり、消費に飽きてくる。20代なら海外駐在に行くという同期の話を聞いて大体の人はうらやましがるだろう。しかし35歳だと違う。既にライフステージが異なる人がおり、子供が一番大切であり海外駐在は羨ましくない、自分のことだけを考えてキャリアを築いている人を子供に思う、今更感、等々状況が大きく違ってくる。僕の新卒同期も35歳で海外転籍の切符を得られそうになっているが、それを聞いていた同期三人はだれもがそこまで羨ましがっていなかった。これが若者ではなくなったことの象徴と言えるだろう。

 

 心の整理として若さに固執する選択はしたくない

 これに対する向き合い方の一つが若さに固執することだ。老いを実感し始めた時に急に筋トレや美容、過度な女遊びに興じることによって若いことをアピールすることや、若さを取り戻そうとすることだ。確かに若さを感じることはできるだろう、しかし実際に老いは止まらない。その路線では結局本当に若い若者に勝つことはできないし、若者が憧れることはない。当然若々しくありたいという思いや努力は悪いものではないし僕も取り組むが固執するのはいけないと考えている。なので違う心の整理に努めていきたいと考え、日々方向性を探していた。

 

 若者は資産家ではなく職人に憧れるので個人としての技量で人を感動させる職人を目指したい

 結論としては職人になる方向性だと思い至った。僕は年齢が離れている人同士では「親方と弟子」「師匠と弟子」「先生と生徒」といった関係に憧れを感じるためだ。このフレーズの中では「親方」「師匠」「先生」を目指すべきなのだが、全て個人としての技量がポイントであることが大切だとわかった。そして若者としての僕はもう一つの「弟子」「生徒」といった言葉は嫌いじゃない。35歳から目指す方向性として重要な基準は若者が憧れるかどうかで考えているので、僕はこの路線を目指したいと思った。

 

 金持ちになることは手段であり、金を持っているだけは虚しいので人を感動させることができる職人を目指したい

 もう一方の道として資産家になる道が想像できる。しかし金(資産)を持っている人は皆最後はなんとなく虚しさを感じ、どんな金持ちも家族が大事と語るという。これは金にあまり意味がないことを示していると思う。またお金をもっているからと寄ってくる若者ではなく、僕が接したいのは自身の技量やプロダクトに感動した若者だ。そして自信を感動させるプロダクトや技量を持った人に憧れとかっこよさを感じるだろう。

 例えばピアノを演奏している久石譲、作曲している久石譲任天堂ゲームクリエイター、華道の先生、司馬遼太郎、料理人、こういった職人に若者は惹かれる。なので僕は金儲けは好きだし金持ちにはなりたいが、最後は若者に尊敬されて憧れる生き方を実現している状態を目指したい。そのためには、ビジネスマンとして資産家を目指すだけではなく、この先20年は職人としてのキャリアも考えていきたいと思った。

 

 

ストックとして妻の信頼を積み上げることでフローとの違いに気がついた

 結婚して一年半経った。33歳まで一人暮らしをしていた僕にとってかなり育ちの違う女性と一緒に住むことは大きなストレスであり、心理カウンセラーにも相談するほど限界だった。一時期は離婚も已む無しと思うこともあり、結婚半年で離婚した先輩もいるのでこういう気持ちだったんだなと共感できた。

 とはいえ、今までの人生でも部活や船での生活で辛いことはあったが辛いことと向き合うからこそ成長できたのも事実だった。例えば高校生時の部活も二年生でやめようと思ったが、あるときから急に楽しくなり引退時には好きになり、続けてよかったと思えていた。この経験から「辛いから逃げる」という言葉への信頼が揺らいだ。その結果、もちろん倒れるほど無理してはいけないが辛いことから逃げてもいけないと信じる様になった。そのためこの結婚生活も非常に辛いが倒れるまで頑張ろうとは思い取り組んできた。

 

 結婚と恋愛ではゲームが違うことに気がついた

 途中で妻からの信頼を積み上げることが大切だと思うようになった。恋愛は好き嫌いで決まる。好き嫌いは「一目惚れ」という言葉がある通り時間は必要ない。しかし信頼には時間が必要だ。つまり、恋愛は好き嫌いのフローのゲームで結婚は信頼のストックのゲームであり、全く異なっていることがようやくわかってきた。

 若い頃はストックよりフローが重要だ。例えば新卒社員は貯金するよりお金を使っていろいろな経験を積んでより大きなフローを稼げるように自己研鑽を積むことで、より効率的にストックを築くことができる。年収500万で20年貯金をするのと、年収1000万で15年貯金するのはどちらが良いかという話だ。僕はそう考えてあまり貯金をせずに生きてきたし、それは成功だったと確認している。しかしフローを用いてフローを増やせなくなってくるとストックを貯める時期に来たといえ、思えば僕もその時期に来たのを感じている。

 

 恋愛にしろキャリアにしろフローを重視する生活を送ってきた

 貯金せずに自己投資(一部消費を含む)を行い年収を増やすこと、また一時的な恋愛を繰り返すことで女性との付き合い方を学ぶことは、ストックを築くためのフローを増加させる戦略だ。フローを追い求める生き方は旅人の生き方だ、いつまでも良い経験を求めて何を築くわけでもなくさまよう生き方だ、そして人は年を取る。遊牧民のように一生旅をできる人もいるのかもしれないが、33歳の時にいつまでも旅を続けられないと感じ、ストックに目を向ける必要があった。

 キャリアについては確かに年収を増やし良い役職につくことができた。しかし新卒から同じ会社で信頼を気づいたり顔なじみを増やすというストックを築くことはできなかった。なので一年半ほど前に長く務められそうな会社に転職した。ここでは年収もあるが、長く努めていろんな人との信頼を築くことを重要視している。

 

ストックはフローと異なり築いたものが大きく、それならではの安定感が強み

 また恋愛においては一年半前に結婚して家庭というストックを築く決断をした。その第一歩が妻との信頼を築くことだと最近わかり、徐々に妻が柔和していくのを感じている。ストックには積み上げたモノという大きいという特徴があり、同時に安心感が伴う。これがフローとの大きな違いだ。妻の信頼を築く中で徐々に積み上げたモノならではの大きさを感じはじめ、ストックの強さを実感するとともに悪くないと思えるようになった。

 

 

 

 

 

 

 

国立を訪ねて、桐朋高校に進学したらと考えた

東京の高校と山梨の高校のどちらにするか悩んだ15歳

 僕は山梨の東側出身で高校受験では県庁所在地である甲府か東京西部の高校も視野に入っていた。その中で最も良い高校は早稲田実業、次に桐朋高校だった。僕の父は桐朋高校が憧れだったらしく、小さいことからよく聞かされており、高校受験のときになると自然と選択肢の一つとして考えた。

 正直桐朋高校は偏差値的に厳しかったが、もう少し下の高校であれば行ける可能性があったため東京西部の高校にするか甲府にするかで悩んだ。結局は東京の高校の説明会に参加したときに、東京に出ることにビビってしまい、兄が進学した甲府の高校に決めた。これは今でも人生の大きな分岐点の一つだったと考えている。中学時、高校時、大学時、でそれぞれ東京に出たタイミングで都会人としての身につく素養は大きく違うと思う。今では思い出すことも少なくなったが、僕は甲府の高校に進学したことを大きく後悔していた。最終的には悪くなかったが、それでも東京に進学していればと思ったことは多々あり、今でもふとした時に人生の大きな分岐点の一つとして考えることがある。

 

国立駅を歩き東京西部の高校に進学した未来が急に心に浮かんだ

 土日に国立駅の地図看板を見たときに桐朋高校が目に止まった。そして大学通りを歩き、どこかわからない高校生をすれ違ったときに「僕にもこの未来がありえたんだな」と急に感じることができ、東京西部の高校に進学した世界線が少し鮮やかに見え感情も湧いてきた。高校時代の三年間を東京で過ごすのも全然違うが、それ以降の35歳までの20年を大きく変え、きっと今とは全然違う全く想像できない未来に辿りついているのだろう。大学から先の大きな選択においては、別の選択肢を選んだときの未来はなんとなく想像できる、だけど高校で東京に出ていたらと考えるとその先は想像ではなく妄想になる。

 

人生を振り返る良いきっかけになった

 それは選ばなかった僕の人生の可能性であり、そしてそんな可能性がある人生だったことを教えてくれる体験だった。可能性がなくなったことの悲しみとともに望郷の思いや15歳の感情を思い出させてくれ、人生を振り返るとても貴重な経験となった。

 僕にはいろんな可能性があった。国立を歩く高校生はその僕のありえた一つの未来であり、もう完全に忘れていたと思っていた甲府の高校に進学してものすごく後悔した自分が急に心に浮かび、15歳の僕の泣くような悲しいような青春の思いを思い出させてくれ、人生を振り返る良いきっかけになった。

 たまにはこうやって過去を振り返るのも大切なことだと思うので、また行きたいものだ。

 

 

 

 

妻が一時的に実家に帰り、世話をすることにすがっていた面があることに気がついた

 昨日から妻が実家に帰り、気付きがあった。

 最近つわりで妻の調子が悪いので昨日から二週間ほど実家に戻ることになった。妻の実家の気遣いで提案いただき、とてもありがたく今回はお言葉に甘えることにした。そして今日は妻のいない朝であるが、妻の世話をすることで充実していた、世話する忙しさで考えることから逃げていた、妻の世話があるので色々と行動できた、ことに気がついた。

 

 妻から必要とされることで、頑張れた

 僕は人から必要とされることが好きで、必要とされることで頑張れる人間だ。なので学んだこととかで役に立てると、他人を助けているようで自分が救われていることが多々あった。なので自分ひとりのための料理、洗濯、そうなってくるとめんどくさくなり適当になった。自分一人と対して変わらない家事を行うだけで結婚しているとパートナーに褒めてもらえるというのはとてもありがたいことだと改めて実感した。事実料理についても一人暮らしのときよりもこだわるようになった。

 若いときは仕事や勉強に一直線だから別に気にならなかった。しかし30代前半になると仕事から得られるドーパミン(高揚感)が少なくなり、仕事だけで生きるのは難しくなっていた。そうなってくると、日々の何気ない家事でも喜んでくれるパートナーがいることでめんどくさいとは思いつつも、救われている面があるのは間違いなかった。

 

 とはいえ、誰かがいないと頑張れないようでは自立していない大人である

 一方で自立することも大切で、パートナーや誰かがいないとしっかりできないようでは依存心が強く大人としてだめだと思う。そのため若いときは一人暮らしをして自分のためだけに頑張るメンタルセットを鍛えることが大切で、仮に将来一人になっても独立した個人として人生を生ききることができるようになっていることが大切だろう。

 

 

一人残された独身同期を見て、自分は置いていく側で良かったと思った

同期会で一人独身の女性は二次会に行きたがったが解散した

 新卒の同期会として4人で飲みに行った。僕を含む男性三人は既に結婚しており、一人で参加していた女性は結婚していなかった。飲み会は久しぶりということもあって話がはずみとても良い会で、一次会が終わったのは21時半と二次会にいくのにも悪くない時間だった。独身の女性は一次会が終わる流れないなったら当然のように二次会のバーを隣で探し始め、僕も独身だったら確実に二次会に行っていたので、大きな変化を感じるとともに、彼女とはライフステージが違うんだなと思った。僕は妻が寂しがるので早めに帰りたかったので、その旨を伝えたところ一次会で解散する流れになった。

 

寂しそうな彼女をみて、おいていく側で良かったを思った。

 男だったら「いいじゃん、独身に付き合ってくれよ!」という言葉も出ると思うが、そのあたりは女性の方が気遣いができる。彼女は寂しそうな顔をして文句も言わず解散することに同意した。そんな寂しそうな顔をした彼女を見て、僕も今の妻と結婚していなかったら今も独身で彼女と同じ立場になり、逆に彼女が結婚している可能性が十分があったのでその寂しさには強く共感し、寂しさを感じた。それとともに僕は彼女よりライフステージを進め置いていく側になれてよかったと思った。僕の哲学として、置いていかれる側よりは置いていく側になるべきと考えている。いつまでも子供ではいられない、なので今回は置いていかれなくてよかったと思った。

 

35歳の独身女性がキャリアの話をしてもどこか寂しさがつきまとっていた

 彼女は恋愛の話もしていたが、海外支社への転籍の可能性についても語っていた。もともと海外勤務への思いが強かった彼女なので、さぞかしワクワクしていると思いきや、かつてほど海外勤務に対する思いが強くないように見えた。そして僕も20代後半の時のように彼女の話に興味を持てず、これがライフステージの違う人同士の会話かと初めて実感した。海外勤務の話をされてもライフステージが違う人だと「いまさら?」という思いがどことなく場によぎっていた。

 

かつて大切にしていたものが大切に感じられなくなったと気づいた瞬間は悲しい 

 おそらく彼女も話しながら自分の中にある悲しさを感じていただろう。長い間秘めていた熱い思いを失うこと、失ったことに気づくことはとても悲しいことだ。海外勤務をするのであればもっと自分の中で熱い時期に行ければと良かったと感じているように見えた。そしてそれは僕もなり得た未来の一つだったのでなおさら理解できて悲しかった。

 というのも、30歳過ぎにAIコンサルのスタートアップに転職することを本気で考えていたが、おそらくうだつが上がらずに激務にとりくむことになり、結婚を考えることもできず彼女と同じような立場になっていた可能性はとても高かった。今考えるととても悪い選択だったので、当時コンサル時代の友人に相談して止めてもらったのは今でも感謝している。

 友人を置いていくのは悲しい。だからといって置いていかれる側にはなりたくないので、ただただ人生で経験するべき悲しみに直面し、改めて理解できた同期会だった。

 

 

 

 

 

船乗り時代と同じでコロナ罹患の苦しい生活は総合してプラスだった

コロナにかかっておおよそ4週間経ちようやく全快した。おおよそ以下の通りである。

・一週間経過:熱と頭痛と筋肉痛がなくなった=仕事がリモートでできるようになった

・二週間経過:味覚が回復した

・三週間経過:運動を開始できた

・四週間経過:咳がなくなった

 

コロナ罹患後の変化について改めて書きたい

 

熱と頭痛と筋肉痛がなくなった喜び

 僕は知能労働の仕事をしている。その中では頭のパフォーマンスがとても重要で、熱や頭痛があるなかで価値ある仕事なんてできるわけない。コロナ罹患後初期のときは熱や頭痛に苦しみながら働いていたが、「こんなんでは仕事にならない!ビジネスマンとして僕はもう終わりだ。。。!」と苦悩と不安の中ベットで悶ていた。男性にとって仕事は社会的存在価値につながることで、アイデンティティの根本に関わる。そのため、熱と頭痛が治ったときは心から安心した。

 

 

味覚が戻った喜び

 何度も書くが味覚が戻ったことが大きい。何を食べても美味しくて感動できるようになった。コンビニのツナおにぎりにすら感動してしまう。人生のQOLが大幅に上がった。食事を大切にするようになった。

 

運動ができる喜び

 心筋炎リスクが高まるという話や、なんだかんだ体力が戻らない噂を聞いていたのでとても不安だった。しかしこの前7キロほど走ることができ、体調が戻ったことを実感できた。もう全力で運動はできないことを諦めとして受け入れる準備をしていたが、意識していないところで不安ではあったようだ。そういった不安がなくなることはとても嬉しかった。

 

咳がなくなったこと

 咳だけは長いいて4週間かかった。これも地味に辛かったので治って本当に良かった。

 

制約によるストレスが楽しみをもたらす

 僕は学生時代船乗りを目指していて、月単位で船に乗っていた。その生活は強制的に船底の6人部屋でスケジュールも明確に決められておりとても制限のある暮らしだった。しかし制約によるストレスあるからこそ得られる楽しみもあって、上陸したときはとんでもない楽しさだった。別部、宇和島、松山、函館、等々行ったが、一週間船の上で隔離されたあとの上陸はどこであっても心から楽しめるものだった。

 今回のコロナも全く同じで強制的にストレスを掛けられた。そして一ヶ月経って完全に治った。これは一ヶ月船に乗り、東京に帰船したときに感じた開放感に似ていて、日々の当たり前な暮らしの尊さを実感させてくれた。船でいえば自由な生活や陸上のありがたみ、コロナであれば知能労働できることや食事や運動の楽しみだろう。こういった日々のありがたみを思い出せせてくれたので、コロナにかかったことは総合してプラスだったと感じている。