2億円稼いで億ションに戻りたい

昔々の話だが、僕は分不相応にも22歳から28歳までの6年間は港区の億ションに住んでいた。ただの大学生である自分がどうやって住んだのかは秘密だが、偶然に偶然が重なって奇跡的にタダで住むことができた。それまでは家賃7万5千円の大田区ワンルームマンションから、100平方メートル前後の億ションに引っ越した時、素晴らしい眺めと共に本当に世界の違いを感じ驚いたのを覚えている。

 

しかし人間の順応能力は凄いもので3年程度経つとそんな分不相応な環境にも飽きてくる。ここは人間の本質とも思うが、快楽には直ぐ飽きを感じるんだと思う。話は脱線するが、貴族は生きるために働く必要が無かっただろうし、一部の人は快楽を求め続けていたと思う。そのような、飽きては次を探すプロセスを繰り返す享楽的な生き方はふとした瞬間に虚無を感じ、辛くなると思う。また、当時僕が飽きてきたとき、貴族も建てた豪邸に飽きを感じるんだろうなと思った。

 

さて、僕が勤務しているようなコンサルファームのパートナーにはタワマンに住む人がそこそこいるが、離婚した後聞いたところ「誰かがいないと無意味」と言っていた。これについては僕も同意する。

家は誰かと住むからこそ意味があって、がらんどうの豪邸には本当に価値が無い。マレーシアで日本より相対的に安い豪邸を買う人がいるが、家族がいればこその豪邸だろう。聞いた話では、結局部屋が余って使いきれなかったらしい。余談だが、明治時代のように家族の人数が多ければ賑やかで素晴らしいと思うが、今の時代に豪邸は不要な気がする。仮に東京に家をもっていたとしても、子どもは結局18歳で家を出て行くし、東京に実家があっても一人暮らしをする可能性がある。

 

3年で飽きたけれど利便性から出ることは無く、結局6年住んで家を出ることになった。しばらくは「分相応な暮らしをしよう、億ションに住んでもたいしたことない」と思っていたが、愚かな事に最近また住んでみたいという思いが湧いてきた。というのもこの前昔住んでいたマンションを遠くから見る機会があったからだ。「昔住んでいたあの時の世界にまた戻りたい・・・」という思いと共に、寂しく家に帰った。

 

とはいっても一人で住む気はない。家族と億ションを手に入れて暮らしたい。

コンサルとして働いても2億円のマンションを購入できるほど稼げる気がしないし彼女もいないし、何か考えないと・・・

 

こんなことを書くと「コンサルなんだから構造化してちゃんと戦略を立て、アクションを実行しろ」と間違いなく言われるが、自分ごとは難しい。コンサルとしては、そもそも目的は「億ションに住むこと」ではなく、「ちやほやされたいのか」、「快適な環境に住みたいのか」、「ハイソサエティの世界に関わりたいのか」、「過去へのノスタルジーなのか」から突き詰めるべきだ。こうして書いてみると考えがまとまってきた。

 

目的(Tobe)と現状(ASIS)のGAPが課題だ。課題を解決するための方法を考えよう。とはいっても二億か・・・

 

なぜworkoutが流行っているのか

最近筋トレなどのWork outが流行っているように感じる。僕は特に女性からwork out という言葉を聞く機会が多い。僕が初めてこの単語を聞いたのはちょうど一年前で、それ以来何人かの女性から聞く機会があった。彼女たちはこちらの動画のような激しい運動をジムで週に何回も行っている。

 

www.youtube.com

 

まずWork outの意味について定義を確認しよう。僕は元々「Exercise」と同じ意味で「運動」と理解していたが異なるようだ。下記ブログによると「Exercise」は「ジョギング、ハイキング、水泳、ダンス等多くの運動」を意味し、「Work out」は「ジムで激しいトレーニングする」という意味とのこと。この定義に拘ると「ジム」で行うことがポイントになるのだろう。

masterlanguage.net

 

 

しかし、スパルタンレースの様な外で行う激しいトレーニングなどもWork outと呼ぶ事がある。そうするとExeciseで行うスポーツとWork outは何が違うのかという疑問が浮かぶ。Work outが「ジムに限らず行う激しいトレーニング」という意味で捉えると、スポーツもWork outに含まれてしまう。

コトバンクによるとスポーツは「競争と遊戯性をもつ広義の運動競技総称」とのこと。これによると「競争」かつ「遊戯製」がスポーツには必要になる。

「Be-monster」や「Cross fit」等のここ一年で急に聞くようになったアクティビティが、上記競争と遊戯性を持っていることは間違いなく、これらはスポーツに入るだろう。ただし両方とも「ジムのような」室内で取り組む激しいスポーツなので、スポーツかつWork outと捉えるのが適切に思う。これらは誰かと戦う運動では無いかもしれないが、自分と戦うことも競争ではあるので、スポーツに入ると考える。

ただしスパルタンレースやCross fitの大会はWork outではなく、ただのスポーツと捉えるのが適切だろう。なぜならジムで行わないからだ。またバスケットは室内ではあるが、ジムのような狭い場所で行わないのでWork outでは無いとするのが妥当だろう。

kotobank.jp

 

ちなみにExerciseと同じ意味で使われやすいtraningは「(懲罰的な)訓練」という意味合いがあり、自発的ではないというニュアンスが強いとのこと。余談ではあるが、これは苦労することが美徳と考える日本人の文化にマッチしているのが面白い点だと思う。

 

海外では【トレーニング】と言わずに【ワークアウト】と言う理由とは

 

さて定義の説明で時間をとってしまった。本当はなぜWork outが流行って来ているかを書きたかったが、これについては別のブログで書きたい。

 

リストラは人生を否定されたように感じる

リストラは人生を否定されたように感じる。一年前にそれを実感したことで、今後は会社は何があるかわからないから、会社に頼らないように生きるべきだと誓うことになった。

 

■過去の経験

僕自身はリストラされた経験はないが、左遷されたことはある。

リストラに比べれば甘いが、社内で優秀な方だと思っていたため、青天の霹靂だった。僕がリストラにするなら社員の75%はリストラにするべきだ、と思っていたくらいだ。(90%と言わない所は謙虚かもしれない)

しかし、もう一年以上前になるが、いきなり上司に呼び出され、三日後から出向と言われたことは今でも忘れられない。昼に告げられ、動揺したまま夕方に個室に呼び出され、人事とかから三人に囲まれて「他の選択肢は無いから、今直ぐ出向同意書にサインしろ!」と詰められたことは、トラウマになっている可能性がある。

出向の理由としては会社が合併したことによる、部署の対立だ。向こうの部署と僕が所属していた部署が被ってしまったため、どちらからの人数を減らさないといけなくなってしまった。それによってかなりの人はリストラになり、出向者も何人か出た。

 

さらに「出向で良くなることはありますか?」と聞いたら、「何もない」と言われた。

そんな出向を告げられた日より動揺したことは今まで無いかもしれない。出世コースから明確に外れたわけではないが、外れた気がして自分の人生が否定されたように感じた。もちろん、出世が人生の全てでは無いが、自分が人生で学んだことが役に立たないと明確に告げられた気がして、人生そのものを否定されたような気がした。

 

■昔の自分

僕はそれまではリストラされた人に厳しかった。「リストラにあったような人は、会社でも結果が出せていないため、残っていても辛いんからリストラにするほうが優しい」という意見をもっていた。しかしいざ自分がなってみるとそうは言えない。こんな辛いことがあるかと実感した。

とはいっても、リストラされた人は何だかんだ再就職をして幸せそうだ。だから結果として良かったのかもしれながい、その瞬間は辛いことは知っておく必要がある。そして出向を告げられた時に誓った、今後会社を信用してはいけないこと、会社に頼らないように生きる誓いは忘れてはいけない。

 

会社に頼らないためにも、英語はもう少し勉強しておきたい。

 

 

 

独学はやめよう(やめれば良かった)

僕は独学を好んでいた、というより人に習うことを嫌っていた。それを今でも後悔している。結論として、今後は独学は辞めてお金を出して効率を買いたいと思う。

 

■嫌いになった背景

まず、僕は三才から公文に行っており、もの心が付いたときには、既に塾に行っていた。そのまま14歳まで塾に行くことになり、すっかり塾嫌いになってしまった。その結果、高校受験も大学受験も公務員試験も全て塾に行かずに取り組むことにこだわりを持った。

二つ目には、私立高校に進学した際に学費面で親に苦労をさせた思いがある。僕が私立高校に進学したため、兄は東京のひとり暮らしを中断しなければいけなくなった。高校生ながらそのことはかなり心に響き、これ以上お金をかけずに(塾等に行かずに)勉強することを意識することになった。今になって考えてみると、ただ塾に行きたくないだけだったが、お金を理由に正当化していた。両親はお金のことを気にしなくて良いから、塾に行ってでもなんでも勉強して欲しかったに違いない。

 

■独学は非効率

大学では国家公務員試験一種を受験することに決め、従来のこだわりからか独学で取り組むことになったが、とても非効率だった。なぜかと言うと、勉強そのものでない、試験自体の調査等に時間をとられるためだ。どの分野の問題がでて、どのレベルまでどのように勉強すれば良いのか全て自分で調べないといけない。大学受験であれば参考書が充実しているから良いが、参考書が十分でなく、本当に必要な勉強にあてる時間が減ってしまい時間を無駄にした。また、勉強自体もわからない部分を質問することができず、効率が落ちるのを感じた。

この経験は今でも後悔していて、できるだけ独学をしないようにする環境を用意しないといけないと思っている。

社会人は時間が重要だからこそ、独学ではなく、時間を短縮できる方法をお金を出して買うべきだろう。

 

■今後について

その後反省を活かして、就活については就活塾に行くことにした。実際それはとても効果的だったと思う。このように反省を活かして次に活かすことが大切なので、今後自分が独学をしていると思ったら、しないように意識しないといけない。

 

次はプログラミング・IT等を勉強したいと思っているが、それも独学ではなく、何かしら指導を受ける方法を探したい。

東京大学本郷キャンパス五月祭に行きました

今日は東京大学五月祭に行った。

五月祭について知らない人は、自分で調べて欲しい。大学院を卒業したのがちょうど3年前だから、4年ぶりくらいに行ったことになる。学歴ロンダリングの身からするとなんとなく東大は肩身が狭い所があるが、何だかんだ2年は勉強していたので、懐かしくはある。未だに引け目があるんだろうか?とりあえず下記のような物を食べた。

 

学園祭で食べたもの

・うどん

・餃子

・牛串

 腹が膨れたので満足した。本来の目的は図書館に行くことで有ったが、今日は学園祭ということで空いていなかった。私が他大学の学部生の時は、学園祭時に見学することができたのに、最近は厳しくなったのだろうか?確かに図書館側からすると一般後悔するメリットは無いし、正しい決断だと思うが、勉強したいOBのためには開放しておいて欲しいところではある。

 

インフルエンザについて勉強した

ということで目的を失った僕は、天才東大医学部生が作成・上映していたインフルエンザの映画を見ることにした。一応ヘルスケア企業のコンサルタントをしている立場でもあるので、勉強も兼ねている。

 

・・・面白い。インフルエンザはなぜ何度も流行するのか?H5N1型インフルエンザの「H」と「N」とは何なのかについてわかりやすく説明していて、勉強にもなりかなり楽しめた。私は大学院で「システム分析」というシステムを分析する手法を学んでいたので、人間の臓器も臓器等の複数の「要素」とそれぞれの「関係」でなりたっているため、正にシステムと言える。

研究ではシステム分析をマクロ分析に応用して、「食料危機は将来発生するかどうか」・「中国は今後も経済発展するのか」・「自動車の普及に伴い大気汚染は今後どうなるのか」といったテーマを扱っていた。しかしよりミクロ的に(マクロとミクロの境目は難しいが、今回は人間をミクロと定義した)人間をシステムとして分析するというのも今後取り組んでみたい。

 

 

ディベートがあったり、色々楽しめるので明日いける人は是非色々みると勉強になると思う。

科学は未来を予想するためにある

今回の趣旨は、科学は未来を予想するためにある、ということの一考察です。

 

【人は未来を予想したがる】

 古来より人間は未来を予想したいと望んでいた。古代であれば天候によって収穫量が増減することは直接生死と関連するため、最も重要な関心事の一つと言えただろう。天候の他には戦争が簡単に思いつく、これは戦争をしたら勝てるかどうか、もしくは戦争をしかけられるかどうか、と言ったことが関心事になる。

 ざっくりと二つをカテゴリー分けすると、天候については自然科学とし、戦争は社会科学と分けることができると考える。この二つは人間がコントロールできるかどうか、という点で区別をした。また現代においては株価の予想などは、誰もが欲しがっている情報と言え、未来の情報は今も輝きを失っていない人類の永遠のテーマである。

 

【全ての自然科学は未来を予想するためにある】

自然科学の定義はコトバンクより下記の通り引用する。

https://kotobank.jp/word/自然科学-73562

自然現象を対象とする科学。自然界において本質的に重要な現象を見出し,現象の把握に有効な概念を確立し,現象を支配する法則を発見する。これにより多様な自然現象間の相互関連を明らかにし,また未発見の事物や現象を予言する。

 

ここでポイントとなのは予言と明確に書いてあることで、予言は未来を予想することである。しかし、ここでの予言は社会に活用という意味を含んでおらず、より現象を支配する法則を見つけるために活用するという意味である。

 私自身は自然科学の意義は現象を支配する法則を発見し、定理を応用して実社会に活用えきるようにすることにあると考える。例えば流体力学ナビエ・ストークス方程式は 飛行機の設計に利用されるし、熱化学に関連する諸々の定理は発電所等の各種工場の設計に活用される。

 なぜ定理が必要かというと、定義はより本質的なルール(法則)であり、応用が効きやすいためである。より具体的にいうと、定理とはinputに対するoutputを数値で表現するだと考える。ここでは数値というのが非常重要で、数値は言語を問わないためより多くの人を同じ土俵で議論させることが出来るという点でスケールしやすいためである。近年イノベーションはどうやったら起きるか、と言った議論が盛んではあるが、シンプルに考えればより多くの多様性に富んだ優秀な人を一つの場所に囲い込めば起きる可能性が高くなる。事例としてはルネサンス時代のイタリア、現在のシリコン・バレーが言えるだろう。数値ベースの議論は言語を問わないため、①より多く人を巻き込むことが出来る、②最適解(正解)を出すことが出来る、③再現性を出しやすい、という点で優れている。

 一方、定理は数値で示さない方法もある、例えば万有引力の法則は言語では「全ての物体は互いに引き合う」となる。しかし公式(数値)で示すことによりメリットを受けやすいだろう。自然科学は基本的に数式で表しており、 数値で占めるメリットを受け、技術の発展に寄与したといえる。

 

 定理と未来予測の関係では、③の再現性が最も重要で、inputに対するoutputが明確になっている=未来を予想することができるといえる。inputが温度50度の水であればoutputの水はどれくらいで、仕事量はどれだけ抽出できるかといったぐらいに予想は可能である。これが社会の発展に寄与していることに異論を挙げる人はいないだろう。 

 

【社会科学は未来予想ではないの?】

 社会科学については未来を予想しないものもあるかもしれない。正直文学と未来予想には関連が見えないが、より本質的な物事を明らかにするということは全ての科学に共有である。と考えると、社会科学も未来予想に役に立つといえる、ただし数値である必要性が低いため、応用は効きにくいと判断している。しかし社会科学的な出来事を統計的な手法等により数値化する動きはあり、進んで欲しいとは思っている。

 これについてはまた別途記事を書きたい。

 

 

ニーチェは「タワーマンションに住むべき」と言った

ニーチェの言葉から、「都市に住む人はタワーマンションに住むべき」という結論に達した。以下はその考察になる。
 
【考えたキッカケ】
私は帰る家が二つある。府中の方にある父親の持ち家と、文京区にあるシェアハウスの二つだ。
多摩の家には学部時代より一人暮らしをしており、正味8年にもなる。固定資産税と水道光熱は父親が支払っているため、ただで住んでいる。大学院までは金がかからず良かったが、社会人になるとdoor to doorで1,5h程度かかり、非常に辛い。ITコンサルティングはそこそこ忙しいので、終電帰りもザラだし、朝1000には出社しないと行けない。といった背景から多摩の家から通うことは不可能と判断し、セカンドハウスとしてシェアハウスを借りることにした。セカンドハウスと行っても月の98%はシェアハウスにいるため、もはやどっちがセカンドハウスかわからなくなってしまった。
 
時々届く郵便物の受け取りや、家のメンテナンス(とはいっても水を流し、窓を空けて喚起をするだけだが)のために、月に一度は家に帰るようにしている。
 
先ほど帰ったとこと、ニーチェの本があったため、郵便物の再送が届くまでの時間読むことにした。
ここまでは前段であり、以下が本文になる。
 
【心に残った言葉】
・人間が自然を好むのは、水平線や地平線といった確固たる線を見ることを好むため。それらは単なる見慣れた風景に過ぎないかもしれない。けれどもその風景の中にあるしっかりと安定した線が、人間の内面に落
ち着きや充足、安堵や深い信頼というものを与えてくれる。誰でも本能的にそのことを知っているため、窓からの風景を重視し、セカンドハウスを選択する
 
今日はこの言葉をテーマに物事を考えたい。
 
【人間は絶対的な価値観を好む】
 絶対的な価値観の定義について厳密には知らないが、私は「誰もが特定の事実を一意的に解釈できる価値観」のことと考えている。対義語は「相対的価値観」だとは思うが、これは「特定の事実に対して人によって良い悪いが分かれる価値観」だと認識している。
 
一番身近な例について述べる。今の世界を支配している「資本主義」では、絶対的な価値観は金銭だろう。上記の定義に合わせると「お金が多いことは素晴らしい」ということは誰もが同意できる。若しくは価値観は、物事の解釈のこととも言える。転職して給料が上がることは資本主義的には正しい、となるが資本主義以前の社会では正しいとは言えない可能性がある。
 
19世紀までの西欧では絶対的な価値はキリスト教道徳であった。つまり、より信仰に従うほど正しいと判断される。この価値観によると転職しても信仰に従わない仕事を選択した場合は、給料が上がっても正しくないということになる。ポイントは少人数ではなく大多数の人で共有できることだろう。
 
【神は死んだ】
19世紀までの絶対的な価値観=神とすると、20世紀は絶対的な価値観=金銭に切り替わった時代と言える。
神はあくまでの絶対的な価値観の対象のであって、神という概念が20世紀になって切り替わった時、神は金銭にとって変わられて存在意義を失い「神は死んだと」言える。とろくに読んでもいないニーチェの最も有名な言葉を勝手に解釈したが、あっているのだろうか・・・
 
【なぜ人は絶対的な価値観を好むのか】
 絶対的な価値に従うことは非常に楽な生き方だからだろう。楽ということは省エネでもあり、責任が無いともいえる。
例えば、何か問題が起きても「信じていたのに酷い」と自分の悲劇のヒロインのようにすれば救われるし、「何が正しいのか」考えることはかなりエネルギーを使うため、省エネでもある。簡単にいうと盲信とも言える。権威も同じ理屈であり、凄い人(社長とか)が言っていたから自分では何も考えずに信じることも同じと言える。
 「親が望むレールをあるいたから俺の人生は台無しになった」と言って、自分で何も考えずに親の示した道を進み、たどり着いてみると自分が望んでいた道ではないことに気づくこともある。そのとき、何も考えなかった自分を責めず、自分の純粋さを武器に無垢な自分は何も悪くなかったと全てを親のせいにすることもその例と言えるだろう。
 
18世紀頃、キリスト教に盲信して進歩が無い世の中を憂いて、全ての人が「何が正しいのか」考えるようにするというのが、啓蒙思想な気がする。(本当だろうか?)
とはいっても、本能的に人は絶対的なものを必要とすると思う。どうしても宗教・主義を基準に頼ることになるのだろう。
 
【人は都市に住むと心が安定しないのでは】
ニーチェは絶対的なものを人間は風景に求めることができると述べている。厳密には「安定した物」と述べているが、私は安定的=絶対的な物を解釈を行い、同列に扱うことにした。そうすると、いつまでも変化しないものを見ると心が落ち着くということになる。変化しない物と言えば、水平線・地平線・山・川などであるが、勿論厳密に言えば整備することで変化する。変化するものは都市だろう。ビルはどんどん経つし、土地開発も盛んだ。そうすると、都市に住むと人は本能的には心が安定しないことになる。
ただし、湾岸部のタワーマンションから東京湾の水平線を見ると、落ち着くかもしれない。だから金持ちになったら水平線が見えるタワーマンションに住みたいと思った。
 
【まとめ】
以上の考察から考えると、心が安定しながら東京にするためには、シェアハウスで貧しい暮らしをせずに、金持ちになって水平線が見えるタワーマンションに住むべきである。
 
ニーチェからの考察から、結論がまとまって良かった・・・