これからは「グローバル化後の世界」での生き方を考える必要があるのではないか?

【ここ15年はずっとグローバル化って聞いていた】

僕が大学生・院生であった2006-2013年は常に「グローバル化」または「グローバリゼーション」という言葉が飛び交っていた。就活、ニュース等々社会に関わる情報で毎日聞いていたような気がする。就活でもグローバル化しなければ生き残っていけないという言葉を何回も聞いた。特に2005年に出版され一世を風靡した、"The world is flat"(フラット化する世界)がその象徴であると思う。実は読んでいないが骨子は以下の通りと認識している。

 

グローバル化ってなに】

グローバリゼーションにはヒト、モノ、カネの三つがあり、最初にカネ、続けてモノ、最後にヒトのグローバル化が進んで世界はフラット化する。グローバル化大航海時代から始まっており、スペイン→オランダ→イギリス→アメリカと覇権国が変わっていく中で順次進んだ。特に産業革命後のイギリスは世界を植民地化しており、合わせてシティを中心とした世界金融システムを構築した。その過程において、資本輸出の増加と共に貿易量も増え、モノのグローバル化が進んだ。しかし、ヒトの移動については、輸送機関の輸送コストが高いこと、加えて国境を跨ぐ事に対して政治的制限が有り、グローバル化が遅れていた。しかし、冷戦の終結やEUの誕生により国家間の移動制約が減った事からヒトのグローバル化が進むようになり、とうとう世界はフラット化された。

フラット化とは、完全競争市場になることだ。つまり、国を問わずあらゆるヒトが平等に評価・選択され、国を問わず買いたいモノを買って、国を問わず好きな場所で資金を調達できる。もっと簡潔に言うならば、今までヒト・モノ・カネの移動には政治的・地理的に国家の制約が有ったがそれが無くなることだ。

 

グローバル化するとどんな影響があるのか】

国、企業、個人の三つの観点から説明したい。

まず最初に、国観点から見ると企業と個人が自分にとってベストな環境である国に住む(企業であれば設立)ようになるため、もっと良い人材や企業が集まるよう努力をしなければならない。よくある事例としては、法人税が安いアイルランドシンガポールに本社を置くパターンがあるだろう。個人でも所得税が低い国に移民する人がいると聞いている。

事実、私の知り合いの起業家は元々シンガポールに住んでいたが、コンテンツ力が無いから日本に戻ってきたと言っている。ここでいうコンテンツ力は、食事・安全性・教育環境等々、経済に限らず国同士を差別化する要素を全てを包括した概念である。余談にはなるが、このコンテンツ力を磨き、みんなが住みたいと思う国を作るのが今後の日本に取って必要だろう。ただ、全ての人材を受け入れる必要は無く、国にとって役に立つ人間のみを受け入れることも戦略オプションとしてはある。

二番目に企業の視点について述べる。企業からみると市場として全ての国が売り先になり、採用についても全ての国から採用することが可能になる。途上国のエリートは英語を習っていることが多く、言語を英語にしていれば、(エリートに限定されるかもしれないが)あらゆる国の人材が採用対象になる。逆に世界中の国がライバルになるとも言えるので、国の規制のもとヌクヌクと生きてきた企業にとっては荒波となる。

最後に個人の視点から説明する。ただ、個人の観点は上記二つの点で既に説明されている。国の選択と企業の選択、選べる人にとっては自由度が高まる一方、競争が激化するため選べない人にとっては苦しい状況になる。企業の採用については、インド人やエチオピア人と採用競争しなければならないかもしれないし、自分が行きたい国に行きたいと思っても優秀でなければ(その国に貢献できる人材でなければ)VISAを取得することはできなくなる。

まとめると、国・企業・個人のそれぞれのレイヤーで競争相手が増えるので、もっと工夫して差別化をしなければならないということだ。戦略の基本は目的に対して「どれだけ競争しない状況≒差別化」を「より少ないリソースで実現≒選択と集中」するかであり、グローバル化した環境で取り組む必要がある。

 

【ここ3年位「グローバル化」って聞くのが減った気がする】

 以上の背景がある中、グローバル化と言われる事が多かったが、ここ2~3年ほど聞く回数が減った気がする。何かしらそれを示す定量的なデータが欲しいが、見つからないため今後の課題としたい。

データがない状態ではあるが、ここでは、グローバル化が止まった象徴としては、世界レベルの協定が進まなくなっている事を述べる。具体的には、WTOも2001年のドーハ・ラウンドから機能不全に陥っており、何も決定ができておらず、失敗している(グローバル化ができてない)と言える。詳細は下記リンクを参考にしたい。

 

https://www.rieti.go.jp/jp/special/special_report/085.html

 

一方で二国間貿易協定であるFTAの締結は増えており、そういう意味ではグローバル化は進んでいると言えるが、グローバル化の歩みが遅くなっている可能性がある。またはもう既にグローバル化は進んできており、これ以上のグローバル化は進まないことも考えられる。

もしかしたら現在は グローバリゼーションが進んでいく時代から、グローバル化された世界へシフトする過渡期であり、これから「グローバル化後の世界」が始まるのではないだろうか?国・企業・個人がグローバリゼーションが進む世界に適合するようにしていたとすると、「グローバル化後の世界」では対応できないかもしれない。

 

【まとめ】

エビデンスが少なく、まだ仮説ベースではあるが下記が主張となる。

現在グローバリゼーションの時代から「グローバル化後の世界」になる過渡期であり、そして国・企業・個人もそれに対応する必要がある。

 

【今後の進め方】

まだ、①グローバル化が終わるのかどうか、②グローバル化後の世界とはどのようなものであるか、についてはデータ収集・考察の両方を行う必要があり、また記事を書きたい。できれば、誰かとDiscussionしたいが相談相手がいない・・・

 

 

2億円稼いで億ションに戻りたい

昔々の話だが、僕は分不相応にも22歳から28歳までの6年間は港区の億ションに住んでいた。ただの大学生である自分がどうやって住んだのかは秘密だが、偶然に偶然が重なって奇跡的にタダで住むことができた。それまでは家賃7万5千円の大田区ワンルームマンションから、100平方メートル前後の億ションに引っ越した時、素晴らしい眺めと共に本当に世界の違いを感じ驚いたのを覚えている。

 

しかし人間の順応能力は凄いもので3年程度経つとそんな分不相応な環境にも飽きてくる。ここは人間の本質とも思うが、快楽には直ぐ飽きを感じるんだと思う。話は脱線するが、貴族は生きるために働く必要が無かっただろうし、一部の人は快楽を求め続けていたと思う。そのような、飽きては次を探すプロセスを繰り返す享楽的な生き方はふとした瞬間に虚無を感じ、辛くなると思う。また、当時僕が飽きてきたとき、貴族も建てた豪邸に飽きを感じるんだろうなと思った。

 

さて、僕が勤務しているようなコンサルファームのパートナーにはタワマンに住む人がそこそこいるが、離婚した後聞いたところ「誰かがいないと無意味」と言っていた。これについては僕も同意する。

家は誰かと住むからこそ意味があって、がらんどうの豪邸には本当に価値が無い。マレーシアで日本より相対的に安い豪邸を買う人がいるが、家族がいればこその豪邸だろう。聞いた話では、結局部屋が余って使いきれなかったらしい。余談だが、明治時代のように家族の人数が多ければ賑やかで素晴らしいと思うが、今の時代に豪邸は不要な気がする。仮に東京に家をもっていたとしても、子どもは結局18歳で家を出て行くし、東京に実家があっても一人暮らしをする可能性がある。

 

3年で飽きたけれど利便性から出ることは無く、結局6年住んで家を出ることになった。しばらくは「分相応な暮らしをしよう、億ションに住んでもたいしたことない」と思っていたが、愚かな事に最近また住んでみたいという思いが湧いてきた。というのもこの前昔住んでいたマンションを遠くから見る機会があったからだ。「昔住んでいたあの時の世界にまた戻りたい・・・」という思いと共に、寂しく家に帰った。

 

とはいっても一人で住む気はない。家族と億ションを手に入れて暮らしたい。

コンサルとして働いても2億円のマンションを購入できるほど稼げる気がしないし彼女もいないし、何か考えないと・・・

 

こんなことを書くと「コンサルなんだから構造化してちゃんと戦略を立て、アクションを実行しろ」と間違いなく言われるが、自分ごとは難しい。コンサルとしては、そもそも目的は「億ションに住むこと」ではなく、「ちやほやされたいのか」、「快適な環境に住みたいのか」、「ハイソサエティの世界に関わりたいのか」、「過去へのノスタルジーなのか」から突き詰めるべきだ。こうして書いてみると考えがまとまってきた。

 

目的(Tobe)と現状(ASIS)のGAPが課題だ。課題を解決するための方法を考えよう。とはいっても二億か・・・

 

なぜworkoutが流行っているのか

最近筋トレなどのWork outが流行っているように感じる。僕は特に女性からwork out という言葉を聞く機会が多い。僕が初めてこの単語を聞いたのはちょうど一年前で、それ以来何人かの女性から聞く機会があった。彼女たちはこちらの動画のような激しい運動をジムで週に何回も行っている。

 

www.youtube.com

 

まずWork outの意味について定義を確認しよう。僕は元々「Exercise」と同じ意味で「運動」と理解していたが異なるようだ。下記ブログによると「Exercise」は「ジョギング、ハイキング、水泳、ダンス等多くの運動」を意味し、「Work out」は「ジムで激しいトレーニングする」という意味とのこと。この定義に拘ると「ジム」で行うことがポイントになるのだろう。

masterlanguage.net

 

 

しかし、スパルタンレースの様な外で行う激しいトレーニングなどもWork outと呼ぶ事がある。そうするとExeciseで行うスポーツとWork outは何が違うのかという疑問が浮かぶ。Work outが「ジムに限らず行う激しいトレーニング」という意味で捉えると、スポーツもWork outに含まれてしまう。

コトバンクによるとスポーツは「競争と遊戯性をもつ広義の運動競技総称」とのこと。これによると「競争」かつ「遊戯製」がスポーツには必要になる。

「Be-monster」や「Cross fit」等のここ一年で急に聞くようになったアクティビティが、上記競争と遊戯性を持っていることは間違いなく、これらはスポーツに入るだろう。ただし両方とも「ジムのような」室内で取り組む激しいスポーツなので、スポーツかつWork outと捉えるのが適切に思う。これらは誰かと戦う運動では無いかもしれないが、自分と戦うことも競争ではあるので、スポーツに入ると考える。

ただしスパルタンレースやCross fitの大会はWork outではなく、ただのスポーツと捉えるのが適切だろう。なぜならジムで行わないからだ。またバスケットは室内ではあるが、ジムのような狭い場所で行わないのでWork outでは無いとするのが妥当だろう。

kotobank.jp

 

ちなみにExerciseと同じ意味で使われやすいtraningは「(懲罰的な)訓練」という意味合いがあり、自発的ではないというニュアンスが強いとのこと。余談ではあるが、これは苦労することが美徳と考える日本人の文化にマッチしているのが面白い点だと思う。

 

海外では【トレーニング】と言わずに【ワークアウト】と言う理由とは

 

さて定義の説明で時間をとってしまった。本当はなぜWork outが流行って来ているかを書きたかったが、これについては別のブログで書きたい。

 

リストラは人生を否定されたように感じる

リストラは人生を否定されたように感じる。一年前にそれを実感したことで、今後は会社は何があるかわからないから、会社に頼らないように生きるべきだと誓うことになった。

 

■過去の経験

僕自身はリストラされた経験はないが、左遷されたことはある。

リストラに比べれば甘いが、社内で優秀な方だと思っていたため、青天の霹靂だった。僕がリストラにするなら社員の75%はリストラにするべきだ、と思っていたくらいだ。(90%と言わない所は謙虚かもしれない)

しかし、もう一年以上前になるが、いきなり上司に呼び出され、三日後から出向と言われたことは今でも忘れられない。昼に告げられ、動揺したまま夕方に個室に呼び出され、人事とかから三人に囲まれて「他の選択肢は無いから、今直ぐ出向同意書にサインしろ!」と詰められたことは、トラウマになっている可能性がある。

出向の理由としては会社が合併したことによる、部署の対立だ。向こうの部署と僕が所属していた部署が被ってしまったため、どちらからの人数を減らさないといけなくなってしまった。それによってかなりの人はリストラになり、出向者も何人か出た。

 

さらに「出向で良くなることはありますか?」と聞いたら、「何もない」と言われた。

そんな出向を告げられた日より動揺したことは今まで無いかもしれない。出世コースから明確に外れたわけではないが、外れた気がして自分の人生が否定されたように感じた。もちろん、出世が人生の全てでは無いが、自分が人生で学んだことが役に立たないと明確に告げられた気がして、人生そのものを否定されたような気がした。

 

■昔の自分

僕はそれまではリストラされた人に厳しかった。「リストラにあったような人は、会社でも結果が出せていないため、残っていても辛いんからリストラにするほうが優しい」という意見をもっていた。しかしいざ自分がなってみるとそうは言えない。こんな辛いことがあるかと実感した。

とはいっても、リストラされた人は何だかんだ再就職をして幸せそうだ。だから結果として良かったのかもしれながい、その瞬間は辛いことは知っておく必要がある。そして出向を告げられた時に誓った、今後会社を信用してはいけないこと、会社に頼らないように生きる誓いは忘れてはいけない。

 

会社に頼らないためにも、英語はもう少し勉強しておきたい。

 

 

 

独学はやめよう(やめれば良かった)

僕は独学を好んでいた、というより人に習うことを嫌っていた。それを今でも後悔している。結論として、今後は独学は辞めてお金を出して効率を買いたいと思う。

 

■嫌いになった背景

まず、僕は三才から公文に行っており、もの心が付いたときには、既に塾に行っていた。そのまま14歳まで塾に行くことになり、すっかり塾嫌いになってしまった。その結果、高校受験も大学受験も公務員試験も全て塾に行かずに取り組むことにこだわりを持った。

二つ目には、私立高校に進学した際に学費面で親に苦労をさせた思いがある。僕が私立高校に進学したため、兄は東京のひとり暮らしを中断しなければいけなくなった。高校生ながらそのことはかなり心に響き、これ以上お金をかけずに(塾等に行かずに)勉強することを意識することになった。今になって考えてみると、ただ塾に行きたくないだけだったが、お金を理由に正当化していた。両親はお金のことを気にしなくて良いから、塾に行ってでもなんでも勉強して欲しかったに違いない。

 

■独学は非効率

大学では国家公務員試験一種を受験することに決め、従来のこだわりからか独学で取り組むことになったが、とても非効率だった。なぜかと言うと、勉強そのものでない、試験自体の調査等に時間をとられるためだ。どの分野の問題がでて、どのレベルまでどのように勉強すれば良いのか全て自分で調べないといけない。大学受験であれば参考書が充実しているから良いが、参考書が十分でなく、本当に必要な勉強にあてる時間が減ってしまい時間を無駄にした。また、勉強自体もわからない部分を質問することができず、効率が落ちるのを感じた。

この経験は今でも後悔していて、できるだけ独学をしないようにする環境を用意しないといけないと思っている。

社会人は時間が重要だからこそ、独学ではなく、時間を短縮できる方法をお金を出して買うべきだろう。

 

■今後について

その後反省を活かして、就活については就活塾に行くことにした。実際それはとても効果的だったと思う。このように反省を活かして次に活かすことが大切なので、今後自分が独学をしていると思ったら、しないように意識しないといけない。

 

次はプログラミング・IT等を勉強したいと思っているが、それも独学ではなく、何かしら指導を受ける方法を探したい。

東京大学本郷キャンパス五月祭に行きました

今日は東京大学五月祭に行った。

五月祭について知らない人は、自分で調べて欲しい。大学院を卒業したのがちょうど3年前だから、4年ぶりくらいに行ったことになる。学歴ロンダリングの身からするとなんとなく東大は肩身が狭い所があるが、何だかんだ2年は勉強していたので、懐かしくはある。未だに引け目があるんだろうか?とりあえず下記のような物を食べた。

 

学園祭で食べたもの

・うどん

・餃子

・牛串

 腹が膨れたので満足した。本来の目的は図書館に行くことで有ったが、今日は学園祭ということで空いていなかった。私が他大学の学部生の時は、学園祭時に見学することができたのに、最近は厳しくなったのだろうか?確かに図書館側からすると一般後悔するメリットは無いし、正しい決断だと思うが、勉強したいOBのためには開放しておいて欲しいところではある。

 

インフルエンザについて勉強した

ということで目的を失った僕は、天才東大医学部生が作成・上映していたインフルエンザの映画を見ることにした。一応ヘルスケア企業のコンサルタントをしている立場でもあるので、勉強も兼ねている。

 

・・・面白い。インフルエンザはなぜ何度も流行するのか?H5N1型インフルエンザの「H」と「N」とは何なのかについてわかりやすく説明していて、勉強にもなりかなり楽しめた。私は大学院で「システム分析」というシステムを分析する手法を学んでいたので、人間の臓器も臓器等の複数の「要素」とそれぞれの「関係」でなりたっているため、正にシステムと言える。

研究ではシステム分析をマクロ分析に応用して、「食料危機は将来発生するかどうか」・「中国は今後も経済発展するのか」・「自動車の普及に伴い大気汚染は今後どうなるのか」といったテーマを扱っていた。しかしよりミクロ的に(マクロとミクロの境目は難しいが、今回は人間をミクロと定義した)人間をシステムとして分析するというのも今後取り組んでみたい。

 

 

ディベートがあったり、色々楽しめるので明日いける人は是非色々みると勉強になると思う。

科学は未来を予想するためにある

今回の趣旨は、科学は未来を予想するためにある、ということの一考察です。

 

【人は未来を予想したがる】

 古来より人間は未来を予想したいと望んでいた。古代であれば天候によって収穫量が増減することは直接生死と関連するため、最も重要な関心事の一つと言えただろう。天候の他には戦争が簡単に思いつく、これは戦争をしたら勝てるかどうか、もしくは戦争をしかけられるかどうか、と言ったことが関心事になる。

 ざっくりと二つをカテゴリー分けすると、天候については自然科学とし、戦争は社会科学と分けることができると考える。この二つは人間がコントロールできるかどうか、という点で区別をした。また現代においては株価の予想などは、誰もが欲しがっている情報と言え、未来の情報は今も輝きを失っていない人類の永遠のテーマである。

 

【全ての自然科学は未来を予想するためにある】

自然科学の定義はコトバンクより下記の通り引用する。

https://kotobank.jp/word/自然科学-73562

自然現象を対象とする科学。自然界において本質的に重要な現象を見出し,現象の把握に有効な概念を確立し,現象を支配する法則を発見する。これにより多様な自然現象間の相互関連を明らかにし,また未発見の事物や現象を予言する。

 

ここでポイントとなのは予言と明確に書いてあることで、予言は未来を予想することである。しかし、ここでの予言は社会に活用という意味を含んでおらず、より現象を支配する法則を見つけるために活用するという意味である。

 私自身は自然科学の意義は現象を支配する法則を発見し、定理を応用して実社会に活用えきるようにすることにあると考える。例えば流体力学ナビエ・ストークス方程式は 飛行機の設計に利用されるし、熱化学に関連する諸々の定理は発電所等の各種工場の設計に活用される。

 なぜ定理が必要かというと、定義はより本質的なルール(法則)であり、応用が効きやすいためである。より具体的にいうと、定理とはinputに対するoutputを数値で表現するだと考える。ここでは数値というのが非常重要で、数値は言語を問わないためより多くの人を同じ土俵で議論させることが出来るという点でスケールしやすいためである。近年イノベーションはどうやったら起きるか、と言った議論が盛んではあるが、シンプルに考えればより多くの多様性に富んだ優秀な人を一つの場所に囲い込めば起きる可能性が高くなる。事例としてはルネサンス時代のイタリア、現在のシリコン・バレーが言えるだろう。数値ベースの議論は言語を問わないため、①より多く人を巻き込むことが出来る、②最適解(正解)を出すことが出来る、③再現性を出しやすい、という点で優れている。

 一方、定理は数値で示さない方法もある、例えば万有引力の法則は言語では「全ての物体は互いに引き合う」となる。しかし公式(数値)で示すことによりメリットを受けやすいだろう。自然科学は基本的に数式で表しており、 数値で占めるメリットを受け、技術の発展に寄与したといえる。

 

 定理と未来予測の関係では、③の再現性が最も重要で、inputに対するoutputが明確になっている=未来を予想することができるといえる。inputが温度50度の水であればoutputの水はどれくらいで、仕事量はどれだけ抽出できるかといったぐらいに予想は可能である。これが社会の発展に寄与していることに異論を挙げる人はいないだろう。 

 

【社会科学は未来予想ではないの?】

 社会科学については未来を予想しないものもあるかもしれない。正直文学と未来予想には関連が見えないが、より本質的な物事を明らかにするということは全ての科学に共有である。と考えると、社会科学も未来予想に役に立つといえる、ただし数値である必要性が低いため、応用は効きにくいと判断している。しかし社会科学的な出来事を統計的な手法等により数値化する動きはあり、進んで欲しいとは思っている。

 これについてはまた別途記事を書きたい。