今の自分に固執してはいけず、感動を産む食事を経験していくことが人生を豊かにすることにつながる

食事を通して、固定概念に固執することのバカバカしさを改めて認識した

 昔の彼女のインスタグラムを見ていたところ、感動を産む食事を最近食べていなかったと語っていた。心を打たれる文言だった。というのも、食事を軽んじていた僕にとって、食事が感動を産むものだということに驚きがあったからだ。僕は感動を求めており、感動こそ人生にとって最も重要だと考えているため、急に食事に興味が湧くようになった。

 人間の思いなんて直ぐに変わる。人間に信念なんてものは存在せず、流動的で変化する生き物であることは常々認識していたが、食事一つとってもそのような固定概念が変わり、全く興味を持てなかった対象であった食事が、インスタグラムのたった一つのフィードを見ただけで一転して興味の対象となった。そんな人間の心変わりを自ら経験することによって、改めて人間とは変化するものであることを実感すると共に、面白い存在だと思った。それと同時に、自分はこうだという固定概念に囚われチャンスを逃すことのバカバカしさを感じ、今後も意識しなければいけないと再確認した。

 

 感動を産む食事とは

 そして感動を産む食事とは何かを考えたい。。誰と食べるか、誰が食べてくれるか、自分で作ったか、どの地域で食べたか、祝い事だったか(記念日だったか)、そして何を食べたか、こういった複雑な要素が絡んでいる。

 過去に感動した食事とは何かを思い出すと、ギャップが大切だと思える。作れなかった料理を作れた(テリーヌとか?)、憧れの人と食事に行けた、学生では到底行けなかったお店に行けた(社会人になった気がした。ペニンシュラのヘイフンテラスがある)、初めてバーに行った(芹沢氏といったバーがある)、マリーナベイサンズで食べた、こういった食事は確かに覚えている。

 このような思い出は確かに大切だ。味だけに囚われていたが、その他の要素も踏まえて食事は評価するべきだろう。上記の中で、コントロールしやすいのは、「何を食べたか」と「作れなかったか」と「誰が食べてくれるか」だ。積極的に健康的で美味しい料理を自分で作り、誰かに食べてもらおうと思った。

 

 そんなことに気がついたのは、「誰がいうか」が大切であり、昔の彼女はそういう意味で僕を変えてくれる尊い存在なのだろう。