携帯がない状態で問題に直面した

今日は教習所以来初めてマニュアル車に乗った。古いせいか5分程度電気をつけたまま買い物に行ったらバッテリーが上がって動かなくなった。そのため、父を助けに呼ばなければならず、どうにか隣の駅から実家まで徒歩と電車で帰った。しかも油断していたため携帯も持っていなかった。

そもそも車が動かなくなったときに、「バッテリーが上がったのでは?」という仮設は思いついたが、それを証明するための情報がなかった。いつもは携帯で直ぐに調べるのだが、とても不自由に感じた。しかたなく、代案として近くにいたバスの運転手にどうにか助けをもとめて聞いたところ、バッテリーが上がっていると言われ、革新が持てた。そして、押しがけならエンジンが掛かる可能性があると言われ、僕が押して運転手が変わりに運転席で試みたがエンジンは掛からなかった。

結局一旦家に帰ることにし、徒歩で最寄り駅まで雨の中歩き、20分電車が来るのを待ち、家に帰った。トラブルが起きてから家に帰るまで一時間半程度だったが、とても長く感じた。

 

ここからが本題で、今となればとても不思議な感覚だった。

 僕もだいぶ忘れていたが、20年前は携帯が無いのが当たり前だった。連絡がいつでも取れるという用途は2000年頃、情報を調べるという用途では2006年頃から普及したように思える。直ぐに情報が調べられないとき、バスの運転手がバッテリーが上がっている行ってくれたとき、小雨の中歩いたとき、駅のホームで小雨に打たれながら待っているとき、携帯が無い世界を思い出した。

 「調べる」という行為に対して即時性がなく、網羅性もなかった時代は、長年の経験で自然とみについてた知識はとても有用で尊敬された。この場合バッテリーがその部分にあたる。その他にも結婚式のマナーでも何でもそういうことはあったはずだ。

 一方で、誰からも連絡が届かない、誰かが探していても連絡が取れないという状況は、緊急時の連絡も自分には届かないことを意味している。仮に両親や親友が亡くなったしても直ぐに連絡されることは無い。それはとても想像を掻き立てるし、誰かのことを考える時間を生み出す。また普段は感じることのない孤独を意識できた。なんとなくSNSを見て、出会い系アプリをやれば会うことはできる。いざとなれば誰かに連絡もできる。それらによって孤独を感じる機会は減っており、久しぶりに孤独を感じることができて新鮮だった。昔なら海外にいれば誰からも連絡されなかったが、今は海外だけでなく飛行機でもインターネットが使える時代だ。こんな時代に孤独を感じることは難しい。孤独かもしれないが、なんとなく繋がりを感じる中途半端な孤独なのだろう。

 

 情報と選択肢が多すぎる世の中にいて、中学生のときに感じた情報への渇望、見ていない世界に対する憧れ、そういった飢えがなくなってしまった。関わる人も少ないほうが大切にしていたと思う。おそらく出会いも少なかったから、その分一度の出会いを大切にしていたのではないだろうか。

 

まとめると、今日は本もない携帯もない、だけど課題はあるという状態を経験した。孤独を感じ、課題は自分で必死に考えるしかなく、誰にも連絡ができないという状況は、人の大切さと、携帯の凄さを実感させた。一方で、携帯がない分、自分に集中しているという感覚を得ることができて、携帯に依存せずに自分に集中したいと思った。