見たい景色を見つけたい

当事者になってその立場にならないとその景色は見えない

 コンサル時代、パートナーにパートナーになりたいかどうかを聞かれた。その時、パートナーにならないと見えない景色があるはずなので、その景色を見るためになりたいですと答えた。とても東大生のエリートらしい回答だと笑われたが、若者はスポーツにしろ大学にしろ、そういった憧れをモチベーションに頑張るものだろう。なので今でも正しいと思うし、僕はそう答える若者が好きだ。打算ではなく、興味または他者や公共のために動くのがエリートだと思っているし、僕が見てきた東大生はそうだった。

 興味本位で動く、これは意外と難しいのは言うまでもない。というのも、お金を興味のどっちをとるか、という二者択一から問をされることが多いからだ。しかしこれはナンセンスだと考えていて、お金を手に入れたことで見える景色にも興味があるし、両方とも手に入れることは可能だからだ。僕も金持ちだからこそ見える景色には興味がある。実際に三年前に年収1000万を超えて見えたものはある。役職が上がって見えた景色もある。これ以上の年収を稼いで見える景色にどこまで憧れがあるか?と考えると、その思いは段々と弱くなっている気がする。もちろん良い家で暮らしたい思いはあるが、ドーパミンを放出するような快楽を求めるために使うお金は、段々とコスパが悪くなる。お金でドーパミンを得るようになる人生、ただただ消費者としてうまくいきていく人生に意味は無いと感じるし、興味はない。

 役職はどうだろうか?もっと偉くなりたいだろうか?これも違う。外資で偉くなることで見える景色に対し、興味がなくなってきている。というのも想像ができるからだ。とはいえ、偉い人と対等に会話ができるようになること自体にはまだまだ興味があるように思える。

 イメージしてみよう。グローバルな日系企業で役員になり、世界の偉い人と対等に話している姿を。その仕事ができていることをかっこ良いと思えるだろうか?対応に話せている自分をかっこ良いと思えるだろうか?それはイエスだ。今の会社で役員になることに対し、それは思えない。ならば転職するしかない。上がったような人生を歩むには若すぎる。

 更に、イメージしてみよう。収入が上がった景色を。それに憧れるだろうか?あり余る程のお金を手に入れることで見える景色は想像できるだろうか?手に入れたら、お金があってもしょうがないと達観できるだろうか?それは見てみたいように思える。というのも、自分の人生をコントロールできるようになるからだ。きっと投資家や起業家になれば見える景色が変わり、それは見てみたいという思いに間違いない。SOをもらって打算的に取り組むのではなく、起業家であり社長という立場であるからこそ見える景色や、お金を持っているからこそ見える景色を見てみたいと思うかどうかが思いだろう。仮に若者がいて、なぜ起業したのかと聞いた時、そう回答されたら僕は納得できる。

 

視座を高くしたい

 これは視座の高さにもつながっており、自分のことを考えることはとても大切だが、広さ(自分→家族→社会)、時間(短期→長期)、思考(浅い→深い)の広がりが視座の高さにつながる。より遠い先の広く深いところの景色を意識するかどうかが、視座の広がり生み出す。端的に言うと近視眼的になってはいけないということだ。

 世の中に小物はたくさんいて、僕は小物になりたくない。相対的なものなので、僕も偉大な人から見たら小物であることに間違いないが、そんな僕から見ても小物に見える人はいる。僕が学歴ロンダリングをして一番学んだことは、東大生の態度やマインドセットだ。東大の優秀層の態度は、やはり違っており、僕が上の人からの受けが良いのはその態度を身に着けているからだと確信している。視座の高さもその態度に一役買っているので、視座の高さを重視していきたい。

 

死ぬときに自分への問は「人生で自分が見たい景色を存分に見ただろうか?」と考えている

 最後に価値観について触れたい。自分が死ぬときに後悔ないようにする、という古典的な言葉があるが、僕ももっと解像度をあげて、「自分が見たい景色を存分に見ただろうか?」という問に対して「YES」と答えられる人生を歩みたい。金持ちの景色、エリートの景色、重役の景色、起業家の景色、スポーツ選手の景色、父親の景色、海外勤務の景色、MBA学生の景色、政治家の景色、いろいろな景色がある。

 その立場にならないと見えない景色というのはある。それを想像ではなく体験として経験しつくすことが目標であり、そのために勉強などの努力をしていきたい。