東京で自然を楽しむには限界がある/コスパを追い求める人生は客観的になりすぎ、結果として自分の人生を失う

今日は2つのことについて書きたい
 
①東京で自然を楽しむのには限界があるに至った
 僕は田舎育ちということもあり自然が好きだ。長く自然と触れていないと調子を壊す。しかし23区内に在住しているとその機会は少ない。そのため家にサボテンをおいたり色々工夫をしたが、結局東京で自然を楽しむのには限界があり、無理に楽しむより丸の内のビル群を楽しむための街と割り切るほうが良いように思えてきた。皇居周りからみる丸の内のビル群は都会を感じさせ、それはそれで好きではあるが自然にも触れたい。
 自然を楽しむためには他県に行くのがよく、山梨の富士五湖、栃木の川治が今の所有力な候補で、電車で片道3時間以内に気軽に行けるところに魅力を感じている。その他の要件として、ごみごみしているキャンプ場は好みではなく、誰もいない雄大な渓谷や渓流が良い。そして機能もブログに書いたが、静かにお茶を飲むのが最高にクールだと感じている。時々自然にふれあい、自律神経を整え、また頑張るのがサイクルとして良い。早速昨日ふるさと納税で持ち運びできる茶器を注文したので、届いたらそれとレジャーシートをもって優雅にお茶を飲んでみたい。
 
コスパを追い求める人生は客観的になりすぎ、結果として自分の人生を失う
 ふと高校生の時に5歳年上の社会人女性と付き合い、とんでもなく楽しかったことを思い出した。高校生の時のドライブは間違いなく大学生よりも楽しい。高校生のクセに彼女とドライブデートなんて背伸びしている、ドライブデートは運転していないにしても校則違反ではないか、皆が自転車で帰る中車で迎えに来てもらえる優越感、そんな背徳的な感覚は何事にも代えがたいワクワクを与えてくれた。それは大学以降も、船に乗ったとき、東大の大学院に入ったとき、初めてクライアントに行ったとき、コンサルに入ったとき、タワマンに住んだとき、初めて海外に行ったとき、感じることができた。そこで最近ワクワクを経験していないのはなぜだろうと考えると、”コスパ”を考えすぎているからではないかと思い立った。
 人生ではもちろんコスパは重要だ。しかし、コスパを追求することは一方でワクワクを追い求める心にも制限をかけてしまうことがある。本当に欲しいものはあるのにコスパが悪いので諦める、そんな経験は皆しているし、お金の問題があるのでそうせざる負えない場面が多い。また、高いお金を払っても完全な上位互換がない場合は自分が何を望んでいるのか精査し、必要なものを買うべきだと思う。
 しかし、お金を払えば自分が望む上位互換の製品がなんとか手に入るのであれば、スマホにしろバイクにしろ思い切ってそれを買うのはありではないだろうか。コスパよく上手く生きているという考え方の裏には、「自分の意志」を制限(我慢)、極論「自分の意志」が入っていない決断を促し、コスパという客観的な正しさを基準にしてします。そして、客観的であるということは他人から評価できることからが勝敗つきやすく、上手く行かない場合は劣等感を感じてしまう。加えて、いつまでも他人の目を気にしてしまうリスクがある。
 それよりは「自分がほしいからコスパ度外視でこれを買った!」という思いで購入したほうが後悔はないんじゃないだろうか。心理学者の研究で、芸術作品を直感と論理のどっちを基準で購入したほうが満足度で高いかを調査しており、購入直後は論理的に買ったほうが満足度が高かったが、最終的には直感で購入したほうが高いとの結果が出た。なので直感=ワクワクを重要視することは最終的に間違いがないことは証明されている。コスパよく上手く生きることを追い求めることも当然大切だが、あまりに注力しすぎると自分のこだわりが無くなってしまう。こだわりとは合理的ではないが自分にとって譲れない部分、それはまさに自分自身を構成する核といって差し支えないだろう。最近の僕はコスパを求めており、コスパが良く変えたと思ったら嬉しさを感じた。しかし、それは受験生がテストで高得点を嬉しく思う感覚に似ている。年を取るほど他人に興味がなくなる。みんな人の目を気にしなくなっていく。そんな中、他人を気にしてコスパを追い求めているなら、それは辞めたほうが良いだろう。そうしてコスパを追い求めることで自分が失われていくような傾向を最近感じるため、自分の人生を作っていくためにもワクワクを大切にしていきたい。
 
■そしてワクワクを追い求める最初のアイテムは・・・
 まずは直近の課題であるバイクの購入について考えたい。トム・クルーズがミッション・インポッシブルで乗っていた、BMW S 1000RR かRnineTが憧れのバイクだが、中古でも両方130万円くらいする・・・20年乗る覚悟を決めるか・・・間違いなくワクワクすると思う。悩む・・・