スマートフォンを手放すことで、努力しなければ何も変わらないと感じた時代を思い出した

 田舎の実家に帰ってきている。そしてできる限りスマートフォンを手放すように生活をした。そのように過ごした朝起きて庭を眺めた時、ふと「何も変わらない」、「昨日と同じ今日」という言葉が胸を駆けた。この感覚は田舎に閉じこもっていた高校時代まで、そしてスマートフォンが広がる前のインターネット黎明期である、学部生までは時折感じていた事だった。その当時得られる情報といえば、ニュースと人づてと本だ。ニュースは自分とは関係がない遠い世界の話、人は近い話をしてもらえるが頻繁に会えるわけではないので情報は限られる、本は一般論が書いており自分事にするのにはそれなりの体験とリテラシーが必要になる。というように、情報の量および自分に関係あるかどうか、といった点で制約があった。

 である以上、親しい人を作って蜜にコミュニケーションを取るか、勉強により高いリテラシーを養い抽象的かつ一般論が多い書籍からの知見をどうにか自分に活かせるようにするか、が問われていた。そのような取り組みをしないと何も変わらない日々が続くことが当たり前だった。なのでそこから抜け出すために、積極的に友人を作ったり、勉強することに対するインセンティブ、または焦りがあり取り組んでいた。

 しかし、スマートフォンとそれにものなうSNSの普及でガラッと変わった。ある程度自分ごと化される程度の情報がいつでも山程目に入ることから、ある程度興味があることを刺激を受けつづける。それにより、なんとなく明日はまた違う一日が来ると思えているか、刺激に溺れてそういった感覚を失っていると思われる。なので「努力しなければ何も変わらない」、「昨日と同じ今日」という感覚を懐かしく感じたのだろう。

 これの何が問題か?それは能動的に努力するモチベーションが減ることだ。ある程度自分事かされている新しい情報は確かに役立つ。しかし、それは嘘の自分事であり、本当の自分事ではなく、それではたどり着けない場所がある。例えば数学のように深い問題、そして自分で体験した友人とのコミュニケーション上の問題、で悩み苦しんだことを積み重ねることで身につく人生の儚さや深さというものは得られない。

 今回実家に帰りSNSと少し離れることで、そのような本当の自分事を積み重ねることが充実した人生につながるのだろうと考え、取り組みたいと思った。