自炊料理の反省

味覚を失った反動で料理に凝ろうとこの土日でいろんな料理を作ったが失敗もした。なので自分のためにメモを残す。

 

①フォカッチャ

 手作りでフォカッチャを作ったが、クーラーを聞かせた部屋では発行時間が足りなかったのかもちもち感が足りていなかったように思える。分量はちょうど良かったので次回はもっと発行時間を作るか、前日に作成して生地を寝かせて置くようにしたい。

 

②きゅうりとセロリの冷製スープ

 手間はかかるが美味しくできた。絞るためのクッキングペーパーが破けてしまったので絞るための布、たとえば日本手拭がほしい。

 

③エビのビスク

 これもまあまあ美味しくできた。タンパク質をとるためにソーセージを入れたのでエビの味が弱くなってしまったので、次回はソーセージ抜きにしたい。また玉ねぎとにんにくを使わないので少し味が弱くなっていたとは思う。

 

④手作りカッテージチー

 圧倒的に失敗した。おそらく牛乳を沸騰直前まで温めなかったので分離しなかったようだ。または宮崎かぼすでは酸が弱く固まらなかったと思える。次回は沸騰直前まで温め、酢をつかって成功させたい。

 

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【書評】松浦弥太郎:センス入門を読んで

 コロナで在宅が増えたので読書をしようと本棚を眺めると松浦弥太郎氏の「センス入門」が目に止まった。

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 購入したのは4-5年前なので読むのはその時以来だろう。そして読んでみると覚えておきたい言葉が多々あったのでメモ代わりに残しておきたい。

 

気になった言葉

・相手に選ばれるためにはどうしたら良いのかという視点を常にもつ

・自分で体験したことだけを話すとセンスがあるように思える。又聞きや想像では話さない、それには感覚が入らないから

・何でも知っている人より何でも考える人になった方が良い

・情報社会の中で確認ではなく発見をしていく

・正常と異常が混在するところに魅力がある

・諦めないで努力する姿が美しい

・志賀尚弥の本が良い

・新しいことを始めるときはケチケチせずにお金をかけて一流の人から学ぶ

 

 

 

 

コロナから三週間経ってようやく体力が戻ってきて、銭湯よりも運動をしていきたいと思った

コロナで落ちた体力が戻ってきた

 今日は夕方に自転車で陸上トラックがある公園まで行き、周辺のランニングと合わせて7kmほどランニングした。コロナにかかってから3週間経ち、寝たきりで外出しない日々で体力が落ちた。そのため先週は二回出社するなど徐々に体力を戻すように取り組んでいる。そしてちゃんとした運動をしようと今日はランニングに取り組んだ。

 最後の1kmはあるていど負荷をかけてとりくみ4分40秒のペースで終えた。中学生のときであれば5km 18分程度で走っていたので、今だったら25分くらいはかかるだろう。とはいえ5分を切ったのは体力が戻った証左だと感じられ嬉しかった。最終的な目標は5kmで20分は切りたい。運動をすることは体力をつけると同時にかなり良いストレス発散方法なので取り組んでいきたい

 

 銭湯よりも運動で満たされることが増えた

 僕は風呂が大好きで毎日でも銭湯に行けるタイプの人間だ。その証拠にラクーアのジムに入っていたときは週6で温泉に入っていた。あれだけ温泉に入ってわかったことは、①サウナや温泉で得られる効用には限界があること。②そして疲れているときに入った方が確実に満足度が高いことだった。充実していない毎日でとりあえずサウナに入ってもなんとなく疲れてなんとなく気持ちが良いという程度にとどまり、筋トレした直後に入ってもこれは変わらなかった。でもバスケットボールやランニングといった有酸素運動で全力を尽くしたあとに入る風呂は間違いなく気持ちが良い。結局風呂の楽しさはどう疲れるかにかかっている。

 そして風呂よりも運動の方がストレス発散効果を感じることが増えた。なんとなく満たされない生活の中でもサウナと風呂に入れたとりあえず少し満たされる。その結果僕はサウナと風呂にすがってしまった。何かあれば銭湯に行きたい、少しでも時間があれば銭湯に行きたい、本当に行きたいわけではなく習慣でそう考えるようになってしまっていた。だけどこれは逃避で、風呂に行っても満たされることはなかった。その中でキックボクシングやランニングといった有酸素運動に取り組むと、これは確かに気持ち良い。その瞬間はそのスポーツに集中できるので脳のリラックスにもとても良いと思った。

 前は1時間の暇があったらとりあえず風呂に行っており、未だに条件反射で風呂が第一選択肢として想起するが、今はカフェで読書するか運動する方を徐々に選択できるようになってきた。体力増強を図るとともに風呂依存を治すためにも運動を第一選択できるように取り組んでいきたい。

 

 

 

味覚を失った経験を活かし自炊の料理に凝りたいと思った

味覚がない食事はただの作業だった

 以前の記事にてコロナにかかり二週間ほど味覚を失ったことを書いた。人は生きていくために食事をしなければならない。味覚を失うとその食事が全く楽しくなくなる。僕は麻婆豆腐と牛タンが好きで、コロナ四日目に食べたら味がしなくて食べるのが辛かった。ただ硬さだけを感じる牛タンとなんとなく刺激から辛さがわかる麻婆豆腐の味気なさといったらない。そういった食事を一日三回摂取するにはとても苦痛で、ただただ生きるためだけに行う”作業”なってしまう。

 作業は楽しいものではない。目的地のために歩くことはある種の作業だが、歩くことそのものに散歩のような楽しみを見出すこともできる。作業そのものを楽しめるような状態で取り組んだほうが絶対によい。食事も生きるための作業だが、食事自体から喜びや楽しみを見いだせた方が間違いなくよい。

 

食事は人に喜びを与えてくれる素晴らしいもので、美味しさを追求することで”作業”から離れていく

 食事そのものから喜びや楽しみを感じられるほど食事自体が目的となり”作業”から離れていく。そして食事は美味しければ美味しいほど喜びや楽しみを感じられる。であれば美味しい料理を作れるようになれば食事は作業ではなくなるだろう。

 そう考えることでおいしい食事をとることに興味を持つことができ、また味覚を失ったことから美味しさを感じられること素晴らしさを強く実感したので、美味しい食事に対してのモチベーションが高くなった。

 食事は日々の生活に彩りと喜びを与えてくれる素晴らしいもので、より充実した食事を得られるように料理教室にいくなりレシピを読むなり色々と取り組みたいと思う。

 

 

 

スペイン語を学んで妻とラテン国で暮らしたい

 日本人は暗いのでラテン系の人と混じったほうが良い

 僕は僕含め常々日本人は暗すぎてだめだと思っている。明るい人種といえばスペイン、イタリア、南米等のラテンの人たちだ。なので僕もラテンの人と触れ合って明るく生きていきたいと思っている。アメリカの強さの源泉はヒッピー文化だが、これからはラテンが来るかもしれない(根拠ゼロ)。

 

 海外志向が強い妻と結婚したメリットを前面に活かしたい

 僕の妻は海外で育ったこともあり海外志向が強い。なのでその強みを生かして海外で暮らしていくことも考えていきたい。今後も「なぜ今の妻と結婚したのか?」を僕は問い続けるだろう。地元の女性でもなくなぜ今の妻と結婚したのか、後悔をしないためにも今の妻でなければできなかったことを実現していきたい。

 その一環としてスペイン語を学んで、どうにか海外で働く機会を得ることを狙っていきたい。当然英語も必要だが両方できるようになったほうがチャンスは広がるだろう。

 

 

アンチエイジングの技術や情報の格差がなくなった時代に感謝して頑張りたい

 僕はもう35歳ということもあり様々なアンチエイジングをしている。具体的には、

・ハゲ対策(AGAの薬を飲んでいる)

・筋トレ

・化粧品+日焼け対策

・ICL(視力矯正)

がある。

 これらがなければとっくにもっとおっさん臭くなって、モテることはなくなっていたのは間違いない。僕の親世代であれば僕はもう詰んでいた。しかし時代の流れもありこういったアンチエイジングができ、モテることに対する現役の時代は長くなった。ひいては気持ちの面でも現役が長くなったといえる。おそらく30歳で現役を終えていたはずだが、35歳でもまあまあなんとかなるのではないかと考えている。

 また情報の格差はITによりかなり埋まってきた。これは偶然知っているか知らないかの確率論で人生がブレる可能性をお金で埋めることが容易になったことを意味している。これによりリスクを減らした生き方ができるようになった。もしITがなかったら何かしら大きな失敗をしていた、もしくはリスクをとって転職や東大の院試を受けることはできなかったのではないかと思う。

 

 親世代よりも恵まれた産まれた時代に感謝して頑張っていきたい。僕の現役時代はもう長くないが、時代によって得ることができた現役時代を有効に活用していきたい。

 

 

自分が死んだ先でも生きているように考えるためには、未来予想をするのが良いかも

 人間は様々な限界がある。デジタルはそのいくつかを解決し、距離を超えて、メタバースであれば土地を超えることができる。その限界は人間の思考に縛りを与えており、技術発展によって乗り越えてきた。しかしそれでも未だに寿命(Life span)という制約は人間に思考の縛りを与えている。例えば、投資一つとっても寿命によってスパンが決まる。自分が死んだあとを見据えた投資を行うことは難しい。

 これは死んだ先のことを実感できない(自分ごととできない)ことが原因だ。自分がいつか生きる先であれば意識できるが、200年後を意識するのは難しい。逆に、それを意識することができれば、死ぬことが怖くなくなるのではと思えた。つまり未来をわからないものとして諦めるのではなく、1000年後まで未来を見ることができれば、それは自分ごとにできるのではないだろうか。1000年後も自分は生きることとして考えることができるのではないかと思えた。未来は次の世代のものだ、だけど各時代の積み重ねだ。

 そして人間は情報を残したがっているという本能を踏まえると、死んだあとに情報が残せないが、自分が見えている世界を思えばそれに向けて取り組めるのではと思った。

 未来を予測して、自分ごと化して、1000年後も自分が生きているかのように選択・意思決定をし、生きていきたいものだ。